第5回加賀ふるさと検定 初級・上級の解答と解説が発表されました!

過去最高の上級合格者を出した、第5回加賀ふるさと検定。

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過去問

さて今回も公表します。正解率の高かった問題ベスト5・ワースト5!皆さんは正解したでしょうか~?

初級編

順位 正解率 正解率の高かった問題
1  99.0% 洗濯機が普及する以前は、 盥(たらい)と(     )が、洗濯用具の必需品であった。
2  96.6% 今は電気コンロやガスコンロなどで煮炊きをするが、それ以前は(     )に鍋や釜をかけて、下から薪やほえ等をくべて火をたき、加熱した。
3  96.1%  片野鴨池では、江戸時代からV字形の枠わくに張り付けた網を空中高く放り投げる(       )猟と呼ばれる伝統猟が行われてきた。
4  88.9% 片野鴨池は、昭和 46 年に(         )条約に基づく、水鳥の生息地として特に重要な湿地として登録された。
5  88.4%  冬場、片野鴨池には数多くの渡り鳥が飛来してくるが、特に絶滅危惧種
となっている(     )の国内最大の飛来地となっている。
順位 正解率 正解率の低かった問題
1 16.9%  明治期、江沼郡では、伊万里焼の写しを大量に生産した。この焼き物は仕上がりが良く、(      )伊万里と呼ばれ、海外では大変人気があった。
2 27.5%  昭和 17 年、それまでの温電に代わって、北陸鉄道(     )が昭和 40 年代まで加賀温泉郷を結ぶ交通体系の中心となった。
3 31.9% 享和3年6月、伊能忠敬ら 測量隊8人は、大聖寺藩領の沿岸を測量
するために、(     )の板屋や松屋、片野村の肝煎宅、橋立村の因随寺などに宿泊した。
4 32.9%  川端御亭(現:長流亭)は、江戸前期の茶人として知られる(   )の建築意匠を採り入れた茶席図をもとに建造された可能性が指摘されている。
5 33.8%  大聖寺の豪商(     )は、文政 6 年(1823)、九谷焼を再興しようと、現在の山中温泉九谷町の古九谷窯跡のすぐ傍らで、新たな窯を築いた。

上級編

順位 正解率 正解率の高かった問題
1 100.0% 加賀市域で盛んに作られる伝統料理の一つに( )があるが、各家庭によって、作り方や味も個性的である。
1 100.0% 縄文時代早期の(      )からは、尖底楕円押型文土器と呼ばれる県内最古の土器が出土している。
1 100.0% 小塩辻村の十村鹿野小四郞は農業知識に詳しく、子孫に伝えるために(      )全5巻を著した。
1 100.0% 河野安通志は早稲田大学を卒業後、大正 11 年「日本運動協会」を創設したが、これが日本初のプロ(     )チームといわれている。
5 95.5% 山口玄蕃宗永は慶長3年に越前北庄城主となった小早川秀秋の家老として赴任し大聖寺城主となった。宗永は(     )の出身で、理財の道に優れた人物であったという。
5 95.5% 「大聖寺博覧会」は、明治 12 年に(         )と遷明中学校の 2 カ所を会場にして、15日間にわたって盛大に開催された。
5 95.5% 山代温泉薬王院の県指定文化財「木造十一面観音像」は、もと白山五院の一つである大聖寺(          )の本尊として祀られていたものである。
順位 正解率 正解率の低かった問題
1 18.2% (      )は、たびたび大聖寺藩に多額の献金を行ない、また、銀行や発電所の創設や教育活動に支援を行なうなど、加賀北前船主のリーダー的存在であった。
2 22.7% 正徳2年8月、強風被害に伴い大聖寺藩領内で正徳一揆が起こった。このとき、農民たちは作柄の検分を行っていた役人らを(     )で襲撃し、年貢の軽減を認めさせた。
3 31.8% 大聖寺藩士後藤才次郎は、伝承では、万治2年藩命で製陶法を習いに肥前有田に赴き、(        )で出会った明の陶工数名を伴って帰藩し古九谷窯を開いたとされる。
4 40.9% 大聖寺藩2代前田利明は、延宝 4 年、中田村五郎兵衛と足軽の栗村茂右衛門を(       )二俣村に派遣し、御料紙や日常紙の製法を習得させた。
5 40.9% 江戸時代、大聖寺藩の村々には、村肝煎・組合頭・(    )からなる村方三役(地方三役)が置かれていた。
6 40.9% 加賀市内の宇谷野工場団地は、昭和 56 年(1981)に市内宇谷町の山林およそ(      )万m2を造成し整備したものである。

 

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